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3. 知っていた方が良い日本史(その2)
(1) 1890年 エルトゥールル号事件
⑧ 1985年 イラン・イラク戦争時、トルコ機により日本人215人救出
イラン・イラク戦争が続いていた1985年3月17日、イラクのサダム・フセイン大統領が「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を無差別に攻撃する」という声明を発表しました。
イランに住んでいた日本人は、慌てて首都テヘランの空港に向かい出国を試みましたが、どの飛行機も満席で搭乗することができませんでした。
世界各国は自国民を救出するために救援機を出しましたが、日本は、自衛隊は当時の法律では派遣不可、また、当時は民営化されていなかった日本航空(JAL)は労働組合の反対に会い、イランに飛行機が派遣できなかったのです。
イランの日本人は途方に暮れていました。
そんな時、救いの手を差し伸べてくれたのがトルコです。トルコから駆けつけた救援機2機により、日本人215名全員がイランを脱出することに成功しました。
タイムリミットのわずか1時間前のことでした。
当時、テヘランには多くのトルコ人も在住していましたが、航空機を日本人に提供し、トルコ人は陸路で避難をしたそうです。
後に駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は当時、次のように語られました。
「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。
私も小学生の頃、歴史の教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。
それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ機が飛んだのです。」
すなわち、トルコの方々は、エルトゥールル号事件の恩返しと考えて、危険な戦地イランに自国民より優先して日本人を助けてくれたのです!
トルコのみなさま、ありがとうございます!
(2) 1944年 ペリリュー島(パラオ)の戦い
① 1920年~ パラオ統治時代
第一次世界大戦後の1920年から、日本のパラオの統治は始まりました。
まず、日本が行ったのは道路や橋の建設、教育制度や医療制度の整備でした。とくにアメーバ赤痢とデング熱の撲滅がパラオ人の信頼を得ました。
それからも日本人とパラオ人の二人三脚の開拓が続きました。
② 1944年 ペリリュー島戦
第二次世界大戦の終盤、パラオのペリリュー島に米軍兵48000人が迫ってきていました。
一方、日本兵は10000人しかいませんでした。
武器の威力も米軍の方が数十倍の装備であり、米軍は3日間でペリリュー島を鎮圧できると考えていたようです。(実際は3ヵ月かかりました。)
パラオ人は日本人を信頼していたため、一緒に米軍と戦いたいと申し出ました。
しかし、中川大佐は「無礼者!我ら帝国軍人が土人と戦えるか!」と一括するのです。普段、温厚な中川大佐が差別的な「土人」という言葉まで使って。
この言葉に信頼を裏切られたパラオのペリリュー島民たちは、失意のうちに日本軍が用意した船でパラオ本島へ移ることになりました。
思いがけないことが起きたのは船が島から離れたときでした。将校を含めた日本兵らが浜へ走りだすと手を振って船を見送ったのです。
日本兵が共闘を拒んだのは、自分たちを救うためだったと気づいた島民たちは、こぼれる涙を堪えられませんでした。
結果、1万人の日本兵は戦死しましたが、島民の犠牲者は1人もいませんでした。
このエピソードは、新聞にも掲載されて多くのパラオ人が知っているのです。
こういった経緯もあり、パラオは親日国なのです。
いまだに、パラオ語の一部として、「大丈夫」、「ありがとう」、「こんにちは」、「暑いね」、「大統領」などの言葉はそのまま使用できるそうです。