1. はじめに
10代のあなたは、日本のこと、ちゃんと知っているかな?
海外の人たちとうまくコミュニケーションしていくうえで、自分の国のことを良く知っていると役に立つ場合が結構あります。
歴史の教科書には掲載されていないけど、知っておいた方が良い話や、最近、海外で売れているなと思う日本商品など、紹介していきます。
2. 知っていた方が良い日本史(その1)
(1) 1890年 エルトゥールル号事件
日本の歴史の教科書には載っていなくて、トルコの歴史の教科書には載っている事件です。
トルコ人はみんな知っているけど、日本人はあまり知らないのです。
この事件の経緯もあり、トルコ人は日本人に大変感謝をしています。
その結果、この事件の95年後のイラン・イラク戦争時に、日本人215人がトルコ人によって救われたのです。
時は明治時代(※明治⇒大正⇒昭和⇒平成⇒令和です)にさかのぼります。
① 1870年代から1880年代
ヨーロッパ列強との不平等条約に苦しんでいたオスマン・トルコ帝国は、明治維新(1868年)後、同様の立場にあった日本との平等条約締結の促進と、1877年の小松宮彰仁親王殿下のトルコ訪問に対する返礼などの目的で、使節団の派遣を計画しました。
② 1889年~1890年 トルコから日本へ使節団派遣
1889年7月14日イスタンブールの港を出港したエルトゥールル号は、11か月かけて、1890年6月7日に横浜港に到着しました。
③ 1890年 エルトゥールル号 トルコへの帰国の途へ
使節団は東京に3か月滞在、その間官民を挙げての歓迎を受け、1890年9月15日、横浜港を出港、トルコへの帰国の途につきました。
日本は、9月が台風の季節であり、またエルトゥールル号が古い木造船であることから、出発前に修理を行うよう勧めましたが、使節団は帰途が遅れないようにと、予定通り出港しました。
④ 1890年 エルトゥールル号 日本沖で台風に遭遇、船体が岩礁激突し爆発
横浜港を出た翌日、エルトゥールル号は串本町大島樫野崎沖で台風に遭遇、岩礁に激突し、船体が爆発。587人が殉職し、生存者わずか69人という大事故が発生してしまいました。
⑤ 現地の人たちによる不眠不休の支援
この遭難に際し、現地の人たちは不眠不休で生存者の救助、介護、また殉難者の遺体捜索、引き上げにあたり、日本全国からも多くの義金、物資が寄せられました。
⑥ 1890年~1891年 日本の軍艦2隻により生存者69名全員トルコに帰国
69名の生存者は神戸で治療を受けた後、1890年10月5日、比叡、金剛の2隻の日本海軍の軍艦により帰国の途につき、3か月後の1891年1月2日、無事イスタンブールに入港、トルコ国民から大歓迎で迎えられたのです。
⑦ エルトゥールル号事件がトルコの教科書に掲載
あまり裕福ではない日本の田舎の漁村の方々が、言葉も通じないトルコ人に、貴重な食糧を分け与えたり、介護したり、遺体を引き上げたりと献身的な支援を続けたこと、
また、当時の長期航海には命の危険もありながら、日本は軍艦2隻でトルコ人をトルコまで送り返してくれたこと、
これらのことがトルコの教科書に載り、代々、トルコ人は、日本人への感謝を忘れずにいたのです。
3. 知っていた方が良い日本史(その2)
(1) 1890年 エルトゥールル号事件
⑧ 1985年 イラン・イラク戦争時、トルコ機により日本人215人救出
イラン・イラク戦争が続いていた1985年3月17日、イラクのサダム・フセイン大統領が「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を無差別に攻撃する」という声明を発表しました。
イランに住んでいた日本人は、慌てて首都テヘランの空港に向かい出国を試みましたが、どの飛行機も満席で搭乗することができませんでした。
世界各国は自国民を救出するために救援機を出しましたが、日本は、自衛隊は当時の法律では派遣不可、また、当時は民営化されていなかった日本航空(JAL)は労働組合の反対に会い、イランに飛行機が派遣できなかったのです。
イランの日本人は途方に暮れていました。
そんな時、救いの手を差し伸べてくれたのがトルコです。トルコから駆けつけた救援機2機により、日本人215名全員がイランを脱出することに成功しました。
タイムリミットのわずか1時間前のことでした。
当時、テヘランには多くのトルコ人も在住していましたが、航空機を日本人に提供し、トルコ人は陸路で避難をしたそうです。
後に駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は当時、次のように語られました。
「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。
私も小学生の頃、歴史の教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。
それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ機が飛んだのです。」
すなわち、トルコの方々は、エルトゥールル号事件の恩返しと考えて、危険な戦地イランに自国民より優先して日本人を助けてくれたのです!
トルコのみなさま、ありがとうございます!
(2) 1944年 ペリリュー島(パラオ)の戦い
① 1920年~ パラオ統治時代
第一次世界大戦後の1920年から、日本のパラオの統治は始まりました。
まず、日本が行ったのは道路や橋の建設、教育制度や医療制度の整備でした。とくにアメーバ赤痢とデング熱の撲滅がパラオ人の信頼を得ました。
それからも日本人とパラオ人の二人三脚の開拓が続きました。
② 1944年 ペリリュー島戦
第二次世界大戦の終盤、パラオのペリリュー島に米軍兵48000人が迫ってきていました。
一方、日本兵は10000人しかいませんでした。
武器の威力も米軍の方が数十倍の装備であり、米軍は3日間でペリリュー島を鎮圧できると考えていたようです。(実際は3ヵ月かかりました。)
パラオ人は日本人を信頼していたため、一緒に米軍と戦いたいと申し出ました。
しかし、中川大佐は「無礼者!我ら帝国軍人が土人と戦えるか!」と一括するのです。普段、温厚な中川大佐が差別的な「土人」という言葉まで使って。
この言葉に信頼を裏切られたパラオのペリリュー島民たちは、失意のうちに日本軍が用意した船でパラオ本島へ移ることになりました。
思いがけないことが起きたのは船が島から離れたときでした。将校を含めた日本兵らが浜へ走りだすと手を振って船を見送ったのです。
日本兵が共闘を拒んだのは、自分たちを救うためだったと気づいた島民たちは、こぼれる涙を堪えられませんでした。
結果、1万人の日本兵は戦死しましたが、島民の犠牲者は1人もいませんでした。
このエピソードは、新聞にも掲載されて多くのパラオ人が知っているのです。
こういった経緯もあり、パラオは親日国なのです。
いまだに、パラオ語の一部として、「大丈夫」、「ありがとう」、「こんにちは」、「暑いね」、「大統領」などの言葉はそのまま使用できるそうです。
4. 知っていた方が良い日本史(その3)
(3) 1945年第二次世界大戦終戦後のウズベキスタンのナヴォイ劇場建設
① 第二次世界大戦終戦後のウズベキスタンでの強制労働
第二次世界大戦が終わった時、満州(今の中国)で捕虜となった日本兵を、ソ連(今のロシア)はシベリアなどで森林伐採や鉄道建設のために強制労働させました。
そして、そのうちの一部の日本兵に対し、戦争で工事が中断していたナヴォイ劇場を完成するように命じたのです。
工事を命じられたのは457人の部隊で、隊長の永田大尉は25歳でした。
彼が考えたのは、隊員たち全員を無事に日本へ帰国させることでした。そしてさらに劇場を、捕虜が作った手抜き仕事と言われるものではなく、日本人はすごいと尊敬されるような立派な建物にしようと考えたのです。
捕虜としての強制労働は苦しく、十分な食事も与えられず、お風呂もまともに入れませんでした。
そんな悪環境下、ロシア人が見張っていなくても、手抜きもせず、一生懸命に劇場建設に取り組む日本人を見て、地元のウズベキスタン人も次第に日本人に敬意を表し、そっと食事を差し入れすることもありました。
子どもたちがパンを差し入れた時には、数日後、同じ場所に日本人が木で作った玩具が、お礼の意味で置いてあったそうです。
日本人の活躍もあり、ナヴォイ劇場は2年で完成しました。ほとんどの日本人も無事に帰国することができました。
② 1966年 タシュケント大地震
それから19年後の1966年、タシケント市は直下型の大地震に襲われ、街はほぼ壊滅しました。
しかし、その中でナヴォイ劇場だけは壊れることなく、避難所として大きな役割を果たしました。
大地震に耐えたナヴォイ劇場の話は、日本人の技術の高さや勤勉さ象徴する話として、ウズベキスタンから中央アジアの各国に伝わり、それらの国では今でも親日家が多いのです。
③ 1991年 ウズベキスタン独立
ウズベキスタンは1991年のソビエト崩壊と同時に独立しました。
ナヴォイ劇場には「日本人の捕虜が建てた」と建設当時に書かれた石碑がありましたが、新しい大統領は「彼らは恩人だ、間違っても捕虜と書くな」と命令して、「日本国民がナヴォイ劇場の建設に参加し、完成に貢献した」と書き直させたそうです。
5. 知っていた方が良い日本史(その4)
(4) 杉原千畝「命のビザ」
① 第二次世界大戦末期
杉原千畝(すぎはらちうね)は第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアで、ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人にビザを発給し、彼らの亡命を手助けしたことで知られています。
2004年にリトアニアの切手に杉原千畝が肖像として使われました。
「シンドラーのリスト」という映画もあるほど有名なドイツ人のオスカー・シンドラーも、第二次世界大戦末期に、多くのユダヤ人の命を救ったことで知られる人物です。
杉原千畝は「東洋のシンドラー」と呼ばれています。
杉原千畝は、人道的な見地から、独自の判断で、リトアニア人、旧ポーランド人にビザを2132枚発給するのです。
その中には、ユダヤ人へのビザが約1500枚ありました。ビザは、1家族につき1枚あればよかったことから、杉原千畝が「命のビザ」によって救ったユダヤ人の数は、少なくとも6,000人に上ると言われています。
現在、その子孫は25万人以上にも及ぶと言われています。
② 1947年 外務省退職
1947年、日本へ帰国した杉原を待っていたのは、独断でビザを発給したことの責任による、外務省からの辞職勧告でした。
③ 1968年 ニシュリ参事官との再会
杉原の命のビザで救われたユダヤ人たちは、杉原のことを忘れておらず、杉原を探し続けました。
1968年、杉原に救われた1人である、イスラエル大使館のニシュリ参事官と杉原は再開することになるのです。
④ 1985年イスラエル政府から賞を受賞
その後、1985年、杉原は、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を受賞します。
⑤ 2000年 名誉回復
1947年に外務省を辞めさせられてしまった杉原でしたが、2000年に日本国政府による公式な杉原の名誉回復が行われました。
杉原本人は既に1986年に亡くなっていましたが。
6. 世界で売れている日本商品
世界で売れている日本商品はいろいろありますが、パパが気になっているものを3つ紹介します。
(1) ハイチュウ
まずは、森永製菓の「ハイチュウ」です。ハイチュウは1975年発売のロングセラー商品です。
アメリカでのブームの火付け役となったのは、当時メジャーリーグのボストン・レッドソックスに所属していた田澤純一投手です。
メジャーリーグには、ブルペンに入る一番若手の選手が飲み物と軽食を用意するという習慣があるそうで、田澤選手がハイチュウを置いたところ、ほかの選手たちから「毎回置いてほしい」との強い要望が出たのです。
アメリカの野球のメジャーリーグでは、ガムを噛んでいる選手が結構いますが、ガムは捨てなければなりません。
ハイチュウは、おいしいし、始めはガムみたいな弾力があるけど、最後にはキャンディと同じようになくなって、捨てる必要がないので、ガムよりハイチュウの方が素晴らしいと考える選手が増えたのです。
このメジャーリーグでの成功をきっかけに、アメリカでの売り上げは、もう日本の50%を超えるくらいにまで成長しているのです。
また、アメリカの子供たちにまで、人気が広がってきています。
(2) ヨックモック
ママが大好きなお菓子「ヨックモック」ですが、いま中東でものすごく売れています。。
中東は原油産出国も多く、大金持ちがたくさんいます。
中東の方々が日本のヨックモックの店を訪れた際、「店にあるヨックモック商品全部ください」というような規模の買い方をする人が、かなりの割合でいたそうです。
そこで、中東でヨックモックの店を出店し始めたところ、大当たりして売り上げが伸びているのです。
(3) 山崎
日本のウィスキーが海外で人気になっています。
特に、サントリーの「山崎」はすごいです。
ワインのように、何年も熟成したものが、元の値段の10倍以上の値段で取引されたりしています。
日本のウィスキーを愛好する日本人にとっては、評価されてうれしい反面、値段が高くなって入手しにくくなってさみしい面もありますね。
7. 日本の発明品
日本の発明品もたくさんありますが、知っておいた方が良いと思うものをリストアップします。
興味があれば、詳細は調べてみてください。
- カップラーメン
- 青色LED
- ノック式シャープペンシル
- カーナビ
- 炊飯器
- カラオケ
- CD・DVD
- 絵文字
- QRコード
- 自動改札機
- 液晶テレビ
- 電子レンジ
- ポケットサイズ電卓
- 携帯型ビデオカメラ
- 中華レストランの回転テーブル
8. 最後に
日本の歴史、商品、発明品など、少しでも知っておくと、外国人の方々とのコミュニケーションに役に立つことが結構あります。
教科書に載っていない日本史でも、覚えておいた方が良いと思うものをいくつか紹介しました。
もちろん、パパが大好きな司馬遼太郎の歴史小説なんかも、ものすごくおすすめです。
「坂の上の雲」「竜馬がゆく」を始め、ほかの作品も本当に楽しめます。
学校の勉強でも、普段の生活・ニュースでも、日本の国のことや歴史・文化をしっかり学んでいく機会にしていきましょう。
きっと将来役に立ちます。
パパより